哲学者網羅伝(ニーチェから合理主義の途中)
《ニーチェ》
神の教え☞所詮人間自身が都合よく考えたもの
そう冷めたニヒルな態度でいること=心が病んでいる状態=「生の高揚」を奪う病
EX)働きアリは無心で餌を運ぶが、「なぜ俺はこんな事をしているのか」と1度疑問に思った時点で「まるで人間がアリを見るかのような視点で自分を見てしまう」☞「あの時気付かなければ良かった」
=「末人」☞目的もなくただ穏便に寿命が尽きるのを待つだけの人間、と表した。
EX)ビリアード台☞「有限」の空間に「有限個」の物質が運動しているのなら、空間上に生じうる物質の位置と速度のパターンは「有限の組み合わせ」
他愛もない、「今の喜び」=「viva!」(肯定)
「強い意志を持って今を肯定し、永劫回帰を受け入れて生きる人間」
【近代以降の哲学の流れ】
「合理主義」☞「実存主義」☞「構造主義」☞「ポスト構造主義」
《デカルト》
西暦500〜1500年 千年続いた「中世」=「信仰の時代」しかし「合理的な考え方をもとに自分の力で何が正しいかを判断する」☞ルネサンス
しかし"そもそも"の人間の認識能力(カメラのレンズ解像度)はどの程度なのか、盛り上がって科学を進めているがそこを確かにしないと人間側(カメラ)が間違えていたら本質を捕え得ない。
1,人間の認識は正しいのか?
2,正しいという根拠はどこから得られるのか?
3,認識に限界はあるのか? (認識論)(学問の正当性)
「人間の認識を徹底的に疑うことで『人間の認識の正しさ』を証明する」
究極の懐疑☞「我思う、ゆえに我あり」
【デカルトの神の存在証明】
1,人間の認識は全て疑わしい。勘違い、夢かもしれない。
2,しかしそれを"私が疑っている"という事実そのものは決して疑うことは出来ない。
3,何故なら、「疑っている事が外部からの作用であるのではないかと"疑っ"ても、疑っている事に変わりはない」。
4,つまり、「考える私」は確実に存在する。
5,そして、その私は「神」という存在を知っている。
6,ここで、神は「完全で無限の存在」であるが、私は「不完全で有限の存在」である。ならば、その私が神を知っているのはおかしい。
7,したがって「神」という概念は私が考え出したのではなく、「私の外部」から与えられたものである。
8,ゆえに、神は存在する。
9,「神」が存在するのだから、世界はデタラメに創られてはおらず、きちんと合理的に出来ているはずである。また、「神」は人間を騙したり、悪意を持ってデタラメな認識を与えたりもしていないだろう(何故なら神は完璧に正しい存在だから)
10,ゆえに、人間が明晰な状態で認識したものは確実に正しい。
詰まるところ、「完璧な神様が僕たちを作ったのだから、その人間の認識は正しいよ。きちんと世界の姿(客観)を捉えてますよ」ということ。
《ペンローズ》
「人間の精神は、脳細胞の機械的動作だけでは説明出来ない。今の科学の常識を超えた道の何かを持ち込む必要がある」